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京都を創る名匠たち 舞妓さんのおこぼ ゝや(ちょぼや)二代目店主 櫻井功氏 - 舞妓倶楽部
「ぽっくり」は今でもよく耳にするが、これは東京の呼び方だそうで、京都では「こぼこぼ」「こっぽり」を経て、“おこぼ”と呼ばれるようになったという。
Updated Date : 2017-08-04 16:37:03
Author ✎ maikoclub
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こぽ、こぽ、こぽ。おこぼの足音は、花街の音
こぼぼ、こっぽり、こっぷり、こっぽん、かっぽ、ぽんぽん…。その昔、舞妓さんの『おこぼ』には日本各地でさまざまな呼び名があったそうだ。中には“ばっか”や“こっぷ”というのもあって、日本語特有の方言ならではのユニークな響きを残している。「ぽっくり」は今でもよく耳にするが、これは東京の呼び方だそうで、京都では「こぼこぼ」「こっぽり」を経て、“おこぼ”と呼ばれるようになったという。 こぽ、こぽ、こぽ。おこぼを履いた舞妓さんが歩くと、なんともいえないあたたかみのある愛らしい音がする。ハイヒールの“カッカッカッ”やローファーやパンプスの“コッコッコッ”の硬めな音とはちがい、重厚感も醸しつつもどこか軽やかな感じがするのは、“総桐”という贅沢な履き物ゆえだろう。
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「私が子どもの頃は、“ちょぼや”って店の名前を言うんが恥ずかしくてねぇ。“ちょぼや”って言うてるのに、“チョコレート屋”に聞こえるっていわれて」とおっしゃるのは、『ゝや(ちょぼや)』の二代目店主、櫻井功さん。祇園・花見小路にあるこの京履物の老舗店は、舞妓さんのおこぼを取り扱う、現代では京都でも稀少な店である。芸妓さんの下駄や草履も取り揃えていて、一般向けの履き物もよりどりみどりだ。 舞妓さんがおこぼを履き、街を歩く姿はいつも颯爽としている。ヒールのないぺたんこ靴を履いたこちらの方が小走りで追いつくのがやっと…というくらい、中には、「超」のつく早足の方もいらっしゃる。高さ、約四寸(12センチ)もある履き物で、一体どうすればそんなに早く歩けるのかといつも不思議だったが、軽快な足取りと、桐独特の、あの繊細な質感からして、てっきり軽いものだと信じ込んでいた。 ところが実際は「お、重い…」。櫻井さんにお願いして、鼻緒を付ける前の“土台”の部分を持たせていただいたのだが、片足だけでも、ちょっとした日曜大工ができるくらいの工具箱を抱えているような重みだった。だらりの帯しかり、お引きずりしかり、そしてこのおこぼ…。舞妓さんが身に纏う美品の数々は、相当の体力がなければ、やはり常人にはなかなか着こなせるものではないなぁと改めて納得。
「この方が見やすいですねん」という“鼻めがね”も初代店主・櫻井さんの父親ゆずりなのだそう
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そして、“重さ”以外にもうひとつ、おこぼと初めて対面し、新たな発見があった。後ろからみると、木地台の“形”がなんと「台形」になっているのだ。「長方形じゃなかったんですね」、我ながら愚かな感想とは知りつつも、今の今まで真四角だと本気で思っていたので口に出さずにはいられなかった。ご主人はしばらく私の目をみつめたまま、あ然とされていたが、「そりゃそうですやん。土台が安定してへんと、歩かれまへんからなあ!」と笑い飛ばしてくださった。 『ゝや(ちょぼや)』は、昭和29年の暮れに、櫻井さんの父親・義雄さんによって創業された。数え年15歳の年から修業を積み、42歳の時に独立して出したお店である。「はじまりはね、いわゆる“くじ減らし”ですわ。昔は子どもを奉公に出しますやろ?親父は兄弟が多かったからね。しかも七人兄弟の五男坊。遠い親戚筋に履物屋があるから、京都に行ってみる気はないかって聞かれて、じゃあ、行ってみるわって、直感的に決めたらしいです」。 俳優の勝新太郎さんや作家の水上勉さんも『ゝや(ちょぼや)』の大ファンだったそうで、初代店主の義雄さんが店を切り盛りしていた頃は、懇意にされていたのだそう。
鼻緒をすげる前のおこぼ。鼻緒の紐を通す小さな穴でさえも、職人によって手彫りされている
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櫻井さんの中学・高校時代は、いつも納品用の箱が店内のそこかしこに山積みされていて、まさに大繁盛で、てんやわんや状態だったという。「私は学校、休んでばっかりでしたね。1限、2限、出て、家に帰ってきたら自転車で配達。辛い?それはなかったですね。楽しかったかて?そうでもないかなあ。親父の手助けやっていわれてやってましたんで。ほんまに勉強嫌いやったさかい、授業さぼれるし、ちょうど良かったんですわ(笑)」。
初代“履き物”職人、櫻井義雄さん
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といいつつも、四人兄弟の中で、稼業を手伝ってこられたのは櫻井さんだけ…。「履き物屋は、二世帯は食べられるけど、三世帯は食べられへん。井の中の蛙とちゃうけど、おまえもここでがんばれ、俺もがんばるから」と義雄さんに言われて、二代目を継ぐことになり、早数十年。親子二代で守りつづけた暖簾は健在。現在に至るという。
店内には、舞妓さんのお店だしの札、芸妓さんの引き祝いや名入りの団扇がずらり
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おこぼは、熱き職人たちの手で守り続けられている
「ひとりではできません。みんな、作業は分担です」と櫻井さんがいうように、一足のおこぼには、想像を絶する多くの職人たちの手が関わっている。鼻緒をつくる人、緒をつくる人、緒の生地を織る人、畳を編む人、畳を木地台にはめ込む人、木地台に畳を釘で打つ人…。 「木地に畳を釘で打つ人」について、“え?釘で打つの!?”とびっくりした方がいるかもしれないのでお伝えしておくと、靴でいういわゆる靴底にあたるおこぼの畳部分は、接着ではない。畳の中には縄が入っていて、そこに刺さるようにして小さなU型の釘を打ち、固定するのだそうだ。釘は表面からはみえないところまで深く打つので、見た目、接着したようにみえるというわけである。 ここでもうひとり、おこぼの職人で忘れてはいけない人、“木地台を彫る人”がいる。おこぼの木地台は、たとえば何か「型」のようなものにはめこみ、自動的にくり抜かれているのではない。すべては人の手によるもの…。今も昔も、生の桐の木をゼロから手で彫り、あの形をひとつずつ作っているのだ。しかも、桐は、ゆがんだり、ひびが入りやすい素材のため、少し彫っては、お湯に浸からせる。さらに、日に当てると割れるので、陰干しする。これを半永久的に繰り返すことで、完成品は何年経っても狂いはしないのだという。
祗園甲部舞妓の小芳さん
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「うちは端(は)を継いでない“一枚もの”しか扱ってまへん。彫られた形でここに届きますけどね、乾燥して彫って…完成までの期間はというと、1年は優にかかるんですわ」。 櫻井さんは続ける。「材質はあるんやけど、職人がない。桐の土台をつくる人がもう今は八十歳以上の人ばっかりですねん。 正確な人数は分からへんけどね、もう日本じゅう探しても10人はおらへんやろね…」。
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幸い、櫻井さんの店では、「うちの息子が若い職人さんを見つけてきたので、今はなんとかなってます」というが、おこぼの木地を彫ること。これを生業としていくには、とてつもなく巧妙な技が、腕が、必要であり、見よう見まねですぐに実践できるようなものではない。 修業には膨大な時間がかかるし、技術を継承するにも、適格な人材が見つからない、というのが厳しい現状である。 これまでにも京文化を支える職人さんたちを取材してきたが、その道ひと筋の“匠”たちも皆、同じようなことをおっしゃっていた。
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そんな声を聞く度に、私はいつも思う。 伝統文化の魅力を、若い世代の人たちにもっと伝えることはできないだろうか。 今の時代との「接点」を見つけて、何か新たな形で少しでも多くの人たちにその素晴らしさを知ってもらうことはできないだろうか、と。
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「でも、文化が、現代人の私たちにとって、一体何のためになるの?」と言う人がいるかもしれないが、「文化」とは文学や芸術だけを意味するものではないと思う。 長い年月をかけて先人たちが形づくってきた慣習や生活様式を含むすべてが「文化」ではないだろうか? 私たちの生活を豊かにしてくれるもの、それが「文化」ではないか? 現に、すでに私たちは今、あたりまえのように「文化」を継承しながらこの社会に生きている。たとえば「言葉」や「文字」はその最たるものだろう。
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そもそも何のために言葉があるのかといえば、人が人に、気持ちや意思を伝えるためだ。 その原型を辿れば、“アー!”“ワー!”などの「音」になる。 人間の生活様式が複雑化していくにつれて、声帯も発達し、さまざまな意味を持つ「単語」が生まれたといわれている。 その後、移りゆく時代につれて、「単語」と「単語」を結びつける「会話」が生まれ、元は「絵」だったものが、共通の意味を持つ「文字」として発達していった…。 この歴史がなければ、今、私たちは話すことも、書くことも知らない別の世界に生きていたかもしれない。 伝統文化も同じ、今を生きる私達にとって、比類なき財産だ。言葉が進化していったように、伝統文化もこの時代と共に、少しずつ形を変えていくかもしれない。 しかし、受け継がれていくことは皆にとって喜ばしいことであり、豊かな心を育ててくれるだろう。 そう思うからこそ、たとえ微力であっても一助となれるよう、今日も彼らの魅力を発信させていただいている。
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『履ける』ように、歩けるようにするんが、私の仕事です
先ほど畳を木地台にはめこむ職人さんの話をしたが、櫻井さんの父親は、店を切り盛りしながら、この作業も自ら行なっていたそうだ。一足で八十本のU型の釘を打つため、右手の指は不思議な形に曲がっていたという。「私がやるんは、ここですわ。鼻緒を“すげる”ところやね。ほら、靴でも草履でも“履く”って言いますやん?私は、最後のところ、履き物を履けるように、歩けるようにする職人です」。 言いながら、櫻井さんは、ひざの上に茶色い前掛けの布を広げ、まだ鼻緒の付いていない下駄一足を置いた。下駄の裏には『ゝや(ちょぼや)』の焼印がしっかり付いている。箱の中から、鼻緒の束を取り出し、その中からひとつ手にとって「ほな、すげてみましょか?」。デモンストレーションしてくださったのだ。 鼻緒の紐部分を作業台に置き、目打ちで抑えていく。鼻緒の生地が破れないように、継ぎ目のあたりにもう片方の手を添え、何度も細かく抑える。大きな切り株みたいな作業台の端がこの作業を行う定位置らしく、ゴツゴツと奇妙な形にえぐれている。しかし、その手さばきはピアノを奏でるように滑らかで早い。前後ろの三つの穴に鼻緒が通された木地台を裏向けにし、ひょひょひょいと紐を結び固定する。余った紐を切る。次は米粒ほどの小さな釘と金づち。『ゝや(ちょぼや)』の屋号を型押しした裏がねをトトトーンと打つ。音のない店内に澄んだ音が響きわたる。マジックでもみているかのようだ。「はい、どうぞ」。あっという間に櫻井さんによってすげられた下駄がショーケースの上に差し出された。 鼻緒をすげる時は、かかとに力を入れるため、ズボンの腰が抜けてしまうほどの力が要るそうだが、力を入れながら木地台に上手く、くくりつけるコツなど、すべては父親の義雄さんに教わったという。父から息子へと受け継がれた“腕”は、花街の芸舞妓さんの文化を支える宝だ。
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ところで、櫻井さんという方は底抜けに明るく、素敵で、そして、どこまでも腰の低い方だった。鼻緒をすげてくださったあと、「すべての工程が芸術的ですね」というと、「いやいや、こんなん単純な仕事ですわ。ほんま、地味な仕事です、しょぼくれてます」とおっしゃる。 また、取材中、店には次々とお客さんが訪れた。古くからご贔屓の女性は、店内をぐるっと一周すると「じゃあ、これとこれ、二足ください」と、ものの数分でお買い上げされていった。「このお店、前から気になっていたんですけど、入ってみようと思ったらいつも閉まっていて。今日は開いてて、良かったわぁ」と入ってこられた新規のご婦人は、つま先に透明の“爪”の付いた雨草履を買っていかれた。櫻井さんはその都度、接客もされていたので、取材は一旦中断となる。そのたびに、「すんまへんな、すんまへんな」と気遣ってくださる。「ご主人、繁盛されてますね!」というと、「こんなんはじめてです。おたくがお客呼んでくれてまんねや、おおきに」と頭を下げられるのだった。
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ポップ界の女王、レディー・ガガの『ガガ・シューズ』こと、超厚底靴をデザインする日本人の靴デザイナー舘鼻則孝(たてはなのりたか)氏は、舞妓さんの履く“おこぼ”に着想を得たという。46センチという驚異的な高さのデザインもあり、もはや靴という既成概念を越えたアートの領域。 見た目にただ奇抜なだけでは、一過性の流行で終わっただろう。しかし、彼の創造は世界を轟かせ、今や国内では、渋谷、原宿、新宿、池袋…至るところで、ガガ・シューズを真似た靴があたりまえのように売られ、その靴で街を闊歩する女性たちがいる。「流行」がある種の“常識”として、マスに浸透したのだといえる。 『ガガ・シューズ』のデザイン性を「モダン」と呼ぶとしたら、つくられた背景を支えているのは「伝統」だ。靴以前に、何百年も前から町方の子女が履き、今なお、舞妓さんによって履かれる“おこぼ”という履き物の歴史。櫻井さんのような職人たちが大事に受け継いできた作り手の歴史。これらがあってこそ「モダン」が生かされ、また逆に、いまだかつてない斬新な「モダン」が「伝統」を輝かせたのではないだろうか。
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ぎおん はきもの ちょぼや
◆京阪電車 祇園四条駅より 徒歩3分 ◆阪急電車  河原町駅より 徒歩5分 ◆バス    祇園より 徒歩3分 四条京阪より 徒歩3分
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